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どんなに多くの本から引用されようと不毛な論理は茶番である。苦手な分野の補強とはいえそんな本につき合う自分が厭になる始末である。それが飯田史彦さんの『愛の論理 私たちは、どこまで愛せばゆるされるのか』(PHP文庫、2002年)である。著者によれば『生きがいのマネジメント』『ブレークスルー思考』『生きがいの創造』などで100万部を起えるべストセラーとなったそうだ。ポアの教祖と同様にそれだけ「生きがい」を求める人はいるのだろう。第4章の「愛の統合理論」というのもすばらしい夕イトルでわたしにはとても口にできないものだ。【以下はわたしの勝手な言いがかりなのでご注意ください。】 とはいえ、随所に引用される社会心理学者のエーリッヒ・フロムから同じフランクフルト学派のへルべル卜・マルクーゼの哲学を思い出し、そのついでに主体性を論じた梅本克己や物象論を論じた廣松渉をたどったがいずれも亡くなってしまった。いずれもマルクスにかかわりながら独自の解釈をしていたが、そんなものに振り回されたというだけである。最近読み直した宮城音称さんの『精神分析入門』(岩波新書、1959年)にこんな文章が出ていたのにうなづくだけだ。【注】 天才的な人間のうちには、多くの独創的な考えを生みながら、これを理論的に体系化することを怠り、または、限度をこえてこれを適用しようと試みるものがあるが、フロイトは、その最もよい例である。亜流の学者はその天才的なひらめき〔強調符あり〕に感わされて、その、のべる所を全面的に信じやすいが、これをフルイにかけてこそ有効なものとなるにちがいない。(前掲書まえがき3頁) わたしが飯田さんの説に疑問を感ずるのは70余冊の参考本が卜ルストイを始めとする欧米文献に限られることだ。仏教にふれていても原始仏教であり、中国や日本で展開した仏教や儒教・道教を捨象している。キリスト教にしてもカソリックであってその他の教派は無視されている。そして参考にされている本も卜ルストイやフロムあるいは特定の心理学者に集中する。引用文献にしてもそこで又引きされるもの、たとえばマルクスの「人間を人間とみなし、世界にたいする人間の関係を人間的な関係とみなせば、愛は愛とだけ、信頼は信頼とだけしか交換できない」も出所がフロムの本にあるだけでそれ以上はわからない。ちなみに、この言葉は73屓と94頁の二回掲載される。つまり選択と引用が学者としての信ぴょう性を疑わせる。わざわざ参考文献リストを並べているもののこういう杜撰(ずさん)さがある。 第一章は「愛」とは何かと、キリスト教や仏教、哲学や医学、心理学から愛の名言を抜き出し、あれこれと定義をられつして学者らしいコレクションの紹介が続くのもわずらわしい。恋と愛の対比に始まる第二章の「愛をめぐる論点」では意志と感情、他者愛と自己愛、罪悪感と自己犠牲がゆるしや依存心を交じえてニ元対比される。第三章は愛の諸側面として、幸福と愛、結婚と愛、医療と愛、教育と愛が自説をより強化して展開する。そしてまとめとなる第四章で「愛の統合理論」となり、愛の統合的定義をしたうえで、「愛の成熟適応理論」として、人間としての成熟度、愛のバランス理論、愛の水準理論、愛の交換理論、愛の成熟適応理論に至る。 引用される愛にかかわる言葉や含蓄にはうなづいても、統合理論に賛成できないのはニ元論の対比を強引に進めて図解する方法にある。それは類型を並べるだけにすぎず、最後の成熟適応理論はそういうものを組み合わせているだけだ。数式を並べるのでなく、図解した努力は学者らしさだろう。でも、サブタイトルを思い出そう。「私たちは、どこまで愛せばゆるされるのか」である。果たして愛はゆるしを乞うための営みなのか。懺悔(ざんげ)や罪悪として生きなければならぬというのはキリスト教と同じだろう。飯田さんの愛の再定義には9つの補足がつくが、定義とかかわらぬ補足もある。そういう無理をしてまで愛を美化するのも何か変である。そしてわたしが気になるのは意志や感情に偏って具体的な人間が持つ性欲や男女の生理的側面に立ち入らぬ上品さである。そういうものを抜きにして語る愛ほど不毛なものではないだろうか。 【注】以下の人物評は、梅本克己を除きフリー百科事典ウィキペディアを参考にしました。 (1)エーリッヒ・フロム (1900-1980) ユダヤ系ドイツ人の社会心理学、精神分析、哲学の研究者。マルクス主義とフロイトの精神分析を社会的性格論で結びつけた。ファシズムの勃興を心理学的に分析した『自由からの逃走』や精神分析の『愛するということ』『悪について』はわたしも読んだ。 (2)へルべル卜・マルクーゼ (1898-1979) ユダヤ系ドイツ人だがアメリカで活躍した哲学者。フッサールやハイデッガーに師事してからへ一ゲルやマルクスを研究。「否定の哲学」を根底に据え、1960年代の新左翼に大きな影響を与えた。わたしは『ユートピアの終焉−過剰 抑圧 暴力』しか読んでいない。 (3)梅本克己 (うめもとかつみ 1912-1974) エンカルタ百科事典ダイジェストによれば、主体的唯物論を説き、新左翼の運動に大きな影響を与えた思想家とされる。経済学者の宇野弘蔵と『社会科学と弁証法』を発刊していた。わたしは岩波新書の『唯物史観とは何か』を読んだ気憶がある。ウィキペディアに出ていないのが意外である。 (4)廣松渉 (ひろまつわたる 1933-1994) マルクス/エンゲルスの思想における物象化論〔補足:物神性とか疎外とい我る分野のことです〕を中心に、マッハ、フッサール、ハイデッカー等と対質しながら独自の哲学を展開した。科学論にも通じていたのもユニークだった。わたしは『マルクス主義の地平』『新編版ドイツ・イデオロギー』『生態史観と唯物史観』ぐらいしか読んでいない。 マルクス主義より唯物論や弁証法がどんなものかにひかれて、ヘ一ゲル、サルトル、レーニン、毛沢東、ルカーチ、プレハーノフ、三浦つとむなどの本も読んだが今もさっぱりわからないのはわたしの頭が悪いからだろう。 |
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