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英語オンチだから新しい言葉が出るたびに尻ごむ。原語に忠実はいいのだがそのたびに調べるのもおっくうだ。同じ言葉が使われても微妙に異なるのは引用者の解釈ちがいだろう。ひまつぶしに苦手な数学やデザインに手を出したばかりに脇道にそれて堂々めぐりさせられた。小島寛之さんの『数学でつまづくのはなぜか』と木全賢さんの『デザインにひそむ〈美しさ〉の法則』で使われるアフォ一ダンスに錯乱して、佐々木正人さんの『アフォーダンス入門』を買う始末である。この言葉は心理学の造語がデザインの理論に転用されて混乱を生んでいるようである。そんなことにつまづいて散財させられるのもいまいましい。 ●数学でつまづく 小島寛之さんの『数学でつまづくのはなぜか』(講談社現代新書、2008年)のまえがきは《あなたが数学でつまずくのは、数学があなたの中にあるからだ》というパラドックスに豊んだタイトルである。数学は歴史の中で紆余曲折を伴ってできあがり、そこに傷も残っているから、でこぼこに足をすくわれても学ぶ者の落度ではないというのもたのもしい。でも、《数学があなたの中にある》というのもよくわからない。数学は人間が作り出したものにせよ、それは数学の思考になじんだ者だけであって、そういう思考を嫌って苦手意識を培ってきた者にどうして内在するのかという反発がわたしにはつきまとう。 これはアフォーダンスという考えから出るのだろう。この言葉はジェームス・ギブソンというアメリカの知覚学者によって完成され、人工知能について研究している認知学者に注目されて現在ではこの分野のキーワードとなっているそうだ(34頁の要旨)。 《「アフォーダンス」とは、ひとことでいうと、「生物は、外側の環境を信号として自分に取り込み、その信号を情報に交換して適応するのではなく、そもそも外側の環境そのものに情報が実在している」、という考え方である。例えば、人間やある種の動物が水中を泳げるのは、それらが「泳ぐ」という能力を自分の内部に開発するからでなく、そもそも水そのものに「泳げる」という情報が内在・実在しているからだ、と主張する》(33頁) というのも例は牽強付会な気がする。水の浮力で人間が浮くことと水面の移動を伴う「泳げる」こととは違うからだ。 それはともあれ小島さんがこの言葉を用いるのは次のように数学教育へ応用できると考えるようである。 《この理論は「能力」というものについて、常識と逆転した発想を与えてくれるからだ。とりわけ「障害」というものの捉え方について、ある種の希望をもたらしてくれる可能性が高い。〔中略〕 自然や社会の特定の事物たちには、「数理的に表現できる」という性質が備わっているのではあるまいか。そして数学的認識とは、このような「数理的に表現できる」という環境の持つ性質を受け取る感覚器官だと考えることはできないだろうか。〔中略〕 このようなアフォーダンス的な見方に立脚すれば、「数学ができる子・できない子」のような分類に、ほとんど意味がないと気づくだろう。〔中略〕 なぜなら、「能力」は人の側でなく、事物の側にあるからだ。学習障害や知能障害は、「健常者に共通する感覚器からは数学を受け取ることができない」、ということを意味しているにすぎない。決して数理的なものごとの受容の完全な欠除を意味しているわけではないのだ。教育者は、目分の(数理的)感覚器を普遍的なものと思いこまず、こどもの側だけでなく事物の側に備わるアフォーダンスのあり方にも注意を払うべきなのである。》(36−37頁) となれば、健常者であっても感覚器官のバイアスや受信力によって事物の発する数理的な表現を拒んだり受け取れないわたしのような者もいるのだろう。論理や数式になじめても図形や三角関数になるとたじろぐのはそうとしか考えられない。むろんそういう偏食をただすのが教育者だろう。でも、その教育者にバカや落ちこぼれと扱われて数学嫌いになったのも忘れられない。この本をきっかけに小島さんの『文系のための数学教室』(講談社現代新書、2004年)もあわせて読んだが経済をテーマにしておもしろい。受験を離れれば数学は思考の鍛練やひまつぶしになる。 ●デザインでとまどう ホームページやブログをまともなものにしようと木全賢さんの『デザインにひそむ〈美しさ〉の法則』(ソフ卜バンク新書、2006年)を読んだら、こちらにも第三章の《美しさと使いやすさの法則》にアフォーダンスが出てくる。「美しいものは使いやすい」という夕イトルに思わずうなづいた。ここで使われるアフォーダンスは、より使いやすいデザインにするために「可視性」を改善する方法として登場する。 木全さんは《アフォーダンスとは、「ものがどのように使えるかを判断するための基礎的な形や素材」のこと》(89頁)という。 《見ただけでどうすればいいかわかること。それがアフォーダンスを利用した可視性です。》(90頁) そこではドアのノブや手のひら大の板を例にして形や素材がイメージさせるものとしている。 こちらの出典は認知料学者のドナルド・A・ノーマンの『誰のためのデザイン? 認知科学者のデザイン原論』である。小島さんと似ているもののモノに特化させるのにとまどう。ドアがあってもそれだけでわかるというのも受け入れにくい。ドアをどのように使う(押す.ひく・まわす・あげる)という約束を知って気づくのではないかと思う始末である。 ●心理学で錯乱する アフォーダンスは元々心理学から発生したというので佐々木正人さんの『アフォーダンス入門』(講談社学術文庫、原本1996年・2008年改題発行)を読み始めた。原題の『知性はどこに生まれるか』が副題である。この本は進化論のダーウインを持ち出し前置きが長い。といってもみみずやサンゴ礁の話はおもしろい内容である。そして、ジェームス・ギブソンという心理学者がなぜアフォーダンスという造語を作ったかの説明が第三章《「まわり」に潜んでいる意味》でようやく登場する。 《英語の動詞アフォード(afford)は「与える、提供する」などを意味する。ギブソンの造語アフォーダンス(affordance)は、「環境が動物に提供するもの、用意したり備えたりするもの」であり、それはぼくらを取り囲んでいるところに潜んでいる意味である。》(72頁) 《アフォーダンスはフィジカルであり、バイオロジカルでもあり、サイコロジカルなことである。物であり、生きものに関係しており、そしてぼくらが「こころ」とよんでいる環境と行為との関わりのプロセスの中心にあることである。》(75頁) 《ギブソンは伝統的な「剌激十中枢」というもデルの抱えている困難を、環境に存在していることについての新たな単位を発見することによって乗り越えた。情報から知覚について考えはじめることで、動物が世界にある意味に直接接触する可能性が肯定できるとした。〔中略〕彼はぼくらが世界を「直接知覚(ダイレクト・パーセプション)」していると言った。世界にはそのまま意味になることがある。知覚とはそれを探す活動なのである。》(78ー79頁) あれこれ引用して混乱してきたが、ギブソンのアフォーダンスというのは《ぼくらを取り囲んでいるところに潜んでいる意味》を知覚を通じてありのままに把握し、認識するための方法なのだろう。それは生きものと環境を区別するのでなく相互かつ総体的に把握するものであり、モノそれ自体にとどまるものではなさそうである。そこがモノに特化したノーマンとの違いではないだろうか。 ●インターネットで確める たかだか3冊読んだだけでは不安になってインターネットで検索をかけた。フリー百科事典のウィキペディアは、「環境がそこに生活する有機体に対して与える意味のこと」とし、ギブソンの造語であることを示しつつ、ノ−マンが「モノに備わった、ヒトが知覚できる行為の可能性という意味」で使ったとする。この微妙なずれがデザインの世界で混乱を引き起こしているようである。 fladdict.net/blogの2005年06月02日「アフォーダンスってなんざんす?」やはてなダイアリーの「アフォーダンス」はそういう混乱を扱っていてわたしだけではないとほっとした次第である。 ちなみに、ノーマンは、《ギブソンのいうアフォ一ダンスを実際のアフォーダンス(Real Affordance)と呼んだ上で、自らの著書内にあるアフォーダンスという文章は全て、「知覚されたアフォーダンス(Perceived Affordance)」と読むべきだ、と言及して》いるそうです【この部分はfladdict.net/blogの2005年06月02日「アフォーダンスってなんざんす?」から引用しました。】 |
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