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1階のエントランスでゲームをしながら子どもたちが話しをするのに耳をそばだてた。「おまえそんなことも知らないのバカだなあ、遅れているよ・・・」ともの知りぶった言いぐさにむっとした。そういえば我ケ家でも、わたしがテレビを眺めて「この役者は誰なの」と聞くたびに、「そんなことも知らないの、やだーお父さん遅れてる・・・」と何度笑われたことか。知らないことがなぜ《遅れ》となるのかわからない。関心や必要がないものを知らなくて当たり前だろう。知らないのはバカという考えに至っては思い上りでしかない。むろん《知る》というのは名前を知っている程度のうすっぺらなものでなく、そのもの本来の意義とか結びつき、あるいは独自性や固有性といった区分をわきまえたものではないか。 ●東インド会社を調べて 茶やコーヒーの歴史に関心を持ち、角山栄さんの『茶の世界史 緑茶の文化と紅茶の社会』や臼井隆一郎さんの『コーヒーが廻り世界史が廻る 近代市民社会の黒い血液』(いずれも中公新書)を読み流した。中国やアラビア原産の飲み物が西欧人にいかになじみ、その需要をまかなうために植民地化に拍車がかかり、非西欧がいかに虐げられたかを確める機会だった。貿易赤字の解消のためにインドの木綿業は英国の羊毛製造に駆逐され、中国はアヘン中毒がまんえんしたあげくに植民地化された。それが資本主義といわれる近代社会を広めたのも歴史の皮肉だろう。ともあれ西欧の需要をみたすためにインドだけでなく中南米やカリブ海まで紅茶やコーヒー生産のプランテーションにされたのもご承知のとおりである。なぜ紅茶が英国に定着し、コーヒーがフランス、ドイツ、アメリカに普及したかも知った。東洋と西洋を結びつけたのはオランダ商人や英国商人が作った軍事力と支配権を兼ね備えた《東インド会社》にある。17世紀の《インド》はヨーロッパとアラビアを除く地域であり、アフリカやインド半島のほかにアメリカ大陸を含んでいる。そして、《東インド》というのは南比アメリカ大陸を除いた広大な領域であることを改めて確めた次第である。それをフリー百科事典のウィキペディアで調べ、印刷しているとプリンターのインクぎれである【東インド会社はウィキペディアに詳しい説明が出ていますが、プランテーションが関連項目に掲載されていないのも不思議です】。 ●流通の歴史に脱線 そこで流通の歴史に向かうのはいくつものとおりの脱線である。生産中心の経済学になじんでいるわたしには価値を生むのは労働力という思考がたっぷり染み付いていて、流通から価値が生まれないという考えを受け入れてきた。でも国際貿易を事実として認めると、《サービス》や《情報》だけでなく《流通》もコストの削減だけでない価値を生むような気がしてならない。それは地域間の価格差をもとにした重商主義に戻ることになりかねないが《時間》や《距離》の差というものは無視できないからだ。マネーゲーム化している国際金融もそうして理解できるのだろう。それはともあれ、次の文章はものの考え方として認めざるをえない。 ●違い、遅れ、固有性 アメリカの人々がアメリカと異なる流通をほぼ自動的に後れとみなす癖があることは、アメリカ研究者も認めるところである。本来「違い」(difference)と「遅れ」(backwandness)は同じでない。わが国の流通システムには、日本社会の歴史的・文化的条件によって生み出された多くの特性がある。これらの諸特性のうち、人々の経済的厚生を損なうものは「流通の遅れ」として克服されねばならないが、日本型システムの方が優れている場合もあるし、違ってはいるが後れているわけではないケースも少なくない。それらは日本型流通の「固有性」(uniquencss)として正しく評価すべきである。 出典:田島義博著『歴史に学ぶ 流通の変化』(日経事業出版センター、2004年)P13-14 ●経済学者のジレンマ 今では先進国の一員だとうぬぼれているものの50年前の日本の良心的な経済学者は、たとえば大塚久雄さんや高島善哉さんには日本を《後進国》とみる面があったような気がする。それは輸入学問としての負い目でなく、ドイツの歴史学派の影響もあったのだろう。アダム・スミスの『諸国民の富(富国論)』やマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の理解には先進国である英国に対する後進国ドイツという対比がある。高島さんに至っては『マルクスとウェーバー』で、後進国のドイツが英国に追いつけ、追いこせとあがく展開を示した。むろん、高島さんはスミスのnationという概念を再考し、各国の独自性も主張していた。日本でウェーバーの『倫理』がもてはやされたのは各国の固有性を抜きに語れなかったのだろう。【概要はわたしの「本の紹介(科目別)」経済学・1976/05/00をごらんください。http://www5f.biglobe.ne.jp/~nobu-yamada/honmokujijannru.html】 ●日本だけではない この《固有性》や《独自性》の主張は日本だけでなく、フランスやドイツだけでなく開発途上国にもみられた。それは民族主義の極右や極左に限らず、国民という意識を持てば次ずつきまとうものだ。グローバル経済が謳歌されようと文化や歴史が異なれば《違った》社会があるわけである。そこには受け入れられるものと拒まれるものがつきまとう。それは《違い》であって《遅れ》ではない。それをグローバルスタンダード(世界標準)なる勝手な押しつけを振り回すから反発も生むのだろう。【マルチネの『5つの共産主義』(岩波新書)やE・マンデルの多様な資本主義分析もあったが忘れてしまった。宇野学派の段階論もそういう現実認識の反映だろう。またノーム・チョムスキーにもこういう主張がある。】 ●歴史に多様性を知る わたしは原理や原則にひかれる。へりくつを並べるのが好きだからだろう。工学よりも物理になじむのは例外が少ないからである。論理や仮説を展開するにも前提が少ないほど整合性を保てる。でもわたしが生き、仕事で糧(かて)を稼ぎ、家族と暮らす世界は例外ばかりである。それは「日本社会の歴史的・文化的条件によって生み出された多くの特性」による。飛躍を恐れずに言えば《固有性》を認めることに歴史はあるのではないか。さきに取り上げた《東インド会社》にしても、オランダと英国では異なる組織基盤と生成衰退を示しており、ひとくくりにできない面もある。そこに人間社会をとりまく歴史の深さがつきまとうのもおもしろい。遅い早いでしか語れない思考ほどバカげて、うすっぺらいようにわたしは思う。 |
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