|
ことしは平成生まれが成人になった。今さら「昭和ブルース」を持ち出すのも気がひけるものの、最初のフレ一ズだけをやけに口ずさむ昨近である。歌ったブルーベル・シンガ一ズのメンバーも覚えていない。 Am 生まれた時が悪いのか Dm E7 それとも俺が悪いのか Am Em Am E7 何もしないで生きてゆくなら Am Dm AmE7Am それはたやすいことだけど (山上路夫作詞・佐藤勝作曲) 余計者や邪魔者呼ばわりされるのも口惜しいから堺屋太一さんの『団塊の世代』(文春文庫、1980年第1刷)を読み直した。この本には、《与機待来》、《三日間の反乱》、《ミドル・バーゲンセール》そして《民族の秋》の4話が含まれる。竹内宏さんの解説によれば、堺屋さんは未来経済小説という新分野を開拓しただけでなく、日本経済の予測の方法についても新機軸をつくったという。長い役人生活と数多くの民間企業と接した経験が反映されるともち上げるのもおかしい。 この本で「団塊の世代」の定義らしいものは次のはしがきにあるようだ。いかにも経済官僚上りの作家が人間を経済要素とみなし、lつの世代を《過当競争》や《過剰施設》という表現で余り物と断罪する決めつけが露出する文章である。 l960年代の「若者の反乱」は、 戦争直後に生れた人口の膨らみが 通り過ぎる嵐であった。 かってハィティーンと呼ばれ、 ヤングといわれた、この「団塊の世代」は、 過去においてそうであったように、 将来においても数数の流行と需要を作り、 過当競争と過剰施設とを残しつつ、 年老いて行くことであろう。 (同文庫から全文引用) 小説に戻れば、1980年代から2000年を予測する面は、高度成長が終焉(しゅうえん)を迎え、迫り来る低成長時代を乗り切るために経済成長時に大量採用された大学卒業者をいかに削減するかという側面に集中する。年功序列の給与体系を否定し、企業がいかに身軽になるかという話ばかりである。第4話は役人の世界にも及んで官僚の世代ギャップだけでなく、過去の政策の失敗を糾弾(きゅうだん)する始末である。電機メーカーが異業種のコンビニ参入して失敗したり、金融機関の経営参加に伴う管理者内部の軋轢(あつれき)、あるいは異業種との職員交流は確かに現実化している。《分社化》、《部門再編成》、《人事交流》などにより中間管理層が切り捨てられる哀話が続くからうんざりする。 どんな時代に生を受けるのかは本人に責任を問うことではない。人間は生まれる時を選べるわけではないからである。それを人口構成を持ち出して、突出しているがゆえに財政負担や企業コス卜の側面で社会のお荷物とか厄介者とする経済末来を語ったために世代間に憎悪を生み出させたような気がする。また出世や功名心だけでなく生活の糧(かて)を得るために仕事をする無名な人間が軽視されたり無視されるのも納得できないのである。 むろん政治のかけひきや人気取りで安易な政策を持ち出してほしくない。経世済民の学は一時しのぎのためにあるわけではないだろう。未来が明るいとか暗いという描き方に言いがかりをつける気はない。わたしが気になるのは《民族の秋》で若手官僚に次のような発言をさせるところにひっかかる。 大友は実にはっきりといった。恐らく、酒気の勢いのせいも多少あったのであろう。 「先のことを考えないで、福祉だとかレジャーだとかで民族のバイタリティをことごとくその日の消費に使ってしまった責任世代なんですよ」 福西はかってない程の大きな衝撃を受けた。子供の頃から特別に人数の多い世代として、終始苦労して来たと考えていた自分たちが、レジヤーと福祉で全てを消費した責任世代だといわれたことが、鋭く胸に刺ったのだ。 だが、衝撃を受けたのは福西ただ一人のようだった。若い男女の職員はもとより、三十代の係長も四十代の庶務主任も大友の言葉にうなずいているのだった。 (同文庫251頁) 【補記】 取り上げた堺屋さんの本は改訂されて新版が出ています。「団塊の世代」という言葉のル一ツゆえにわたしはあえて古いほうを読み直しました。 |
| << 前記事(2008/06/06) | トップへ | 後記事(2008/06/07)>> |
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|
| << 前記事(2008/06/06) | トップへ | 後記事(2008/06/07)>> |