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イルカの歌に「見ようとしなければ何も見えない♪」というフレ一ズがあったような気がする。今もふっとロずさむのに、曲名が思い出せないのが腹立たしい。これは先日、倉嶋厚さんの『やまない雨はない』を読んで思い出した。目には映っても、ほかのことに気をとられて見たことさえ気づかないことがわたしにもたびたびある。 倉嶋さんは北原白秋の『黒檜』という晩年の歌集から次の句を紹介している。読みやすいように勝手な改行をさせていただこう。なお、黒は黒と幼を組み合わせた漢字だが、略字にさせていただく。 か黒葉に しづみて勾う夏霞 若かる我は 見つつ観ざりき 北原白秋は明治後期から昭和前期まで童謡や校歌まで幅広く手がけた詩人で、「薔薇」・「落葉松(からまつ)」・「待ちぼうけ」が教科書に使われていた。わたしにはそれくらいしかかかわりがない。 わたしは、この句の「若かる我は見つつ観ざりき」にひかれる。姿や顔に見とれて、その内面まで立ち入らないのは今も変わらない。むしろ、若さが邪魔をして古いとか煙たいと感じたものはけっこう無視していた。人道主義や博愛など持ち合わせていないものの《潔癖》という独断がつきまとった。見えていても見えないふりをしたし、見る気が欠けた。 もの知りぶるのは厭だから《見る》と《観る》のちがいに立ち入るのはやめよう。同じ場所をクルマで通過しても、運転手と同乗者で見る程度が異なる。流して見るのとじっくり眺めるとでは記憶に違いがある。だから、同じ場所に出向いてもあとで妻子話すと大きなズレがある。目には個人差や偏りが伴うものだ。そういうバイアスがあるから語り合う楽しみもあるのだろう。 ともあれ、見ようとしても見えないものは多い。それは勘の悪さだけでなく、見ようとしないフィルターやバリアーがあるからだろう。また、何もかもを全て見ようとするのも無理がある。でも、見ようと努めないと観えないことは確かにある。空気と同様に、それがあって当然と思っていても失って気づくようなものだろう。力メラでいえば、標準レンズだけでなく望遠や広角に交換したり、フイルターをUVから偏光やボカシにすることも必要なのかもしれない。 前句の「か黒葉に しづみて勾う夏霞」という心境はわたしには今もない。やっぱり、「見ようとしなければ何も見えない」ようである。見た目にだまされ、見て見ぬふりをしてきたわたしはそう思う。イルカの歌のタイトルは何だったのか気になって調べても見当らないのがしゃくである。 【補記】 暑くて作文どころではありません。でも、見るという言葉には、錯覚や後悔という負の評価が付きまとうのは視力の低下だけではなさそうです。 |
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